通称
「ガリア帝国」はローマから自立した地方独立政権であり、ガリア、ゲルマニア、ブリタニア(*現:フランス、ドイツ西部、イギリス南部)を支配した。初代皇帝となったポストゥムス(在位:AD260-AD269)は下ゲルマニアの総督だったが反乱を起こし、現地駐留のローマ軍を取り込んで皇帝位を宣言した。ガリア帝国の首都はローマから遠く離れたライン川西岸の植民都市 コロニア(*コロニア・アグリッピナ, 現在のドイツ西部ケルン, 当時はゲルマニア国境最前線の都市)と定められ、ローマと同じく宮廷と元老院、毎年選出される執政官職を設けるなど、ローマ的な国家としての体裁を整えた。
また造幣所も改良され、皮肉にも財政が悪化したローマ本国よりも質の高い金貨・銀貨が製造された。このコインはトレウェリの造幣所で造られたが、当時ローマ本国で造られていたガリエヌス帝のアントニニアヌス貨よりも彫刻は細かく、重量、銀の含有率も優れている。当時のガリア、ゲルマニアが開拓され、ローマ化が進んだ地域であったことが窺える。
ガリアに建設されたローマ水道橋 (ポン・デュ・ガール)ガリア地方南部のユゼスからコロニア・ネマウサ(*現:フランス,ニーム)に給水するため1世紀半ばに建設。ユリウス・カエサルによるガリア遠征以降、平定された各地にはローマ人が多く入植し、ローマ風の都市が建設されたことで急速なローマ化が進んだ。
ガリア帝国はローマ本国へ攻め上ることはせず、ガリアとゲルマニアを中心とする地域の支配を確立して蛮族からの防衛を図った。この独立政権は14年続き、五人の皇帝によって統治されたが、AD274年にアウレリアヌス帝の軍勢によって攻め滅ぼされ、再びローマ帝国に統合されて消滅した。