マクセンティウスはガレリウス帝に反旗を翻して帝位を宣言し、ローマを中心とするイタリア半島~北アフリカまでを支配下に置いた。妹のファウスタを競合するコンスタンティヌス1世に嫁がせ、帝位を狙う父マクシミアヌスを排除するなど権力を固めようとしたが、ローマ市民と元老院に重税を強いるなどの暴政を行ったため支持を失った。
312年10月28日にコンスタンティヌス軍とミルウィウス橋で戦うも敗れ、撤退する際にティベリス川に転落して溺死したと云われている。戦闘の翌日に引き上げられたマクセンティウスの遺体は斬首され、ローマ市中を引き回された後にカルタゴへ送付された。マクセンティウスが発した法令は全て無効とされ、彼の業績は公式記録から抹消された。
ミルウィウス橋の戦い コインにはマクセンティウス帝の肖像と共に、ローマ女神を奉る神殿が表現されている。神殿内に安置された女神の坐像は盾と槍を携え、右手で球(=世界=ローマ帝国の象徴)を持っている。神殿の破風の部分にはリースが配され、ローマの栄光を象徴している。マクセンティウスの在位中にローマで発行されたコインには、ローマ神殿や双子神ディオスクロイ、雌狼とロムルス、レムスなど古来のローマの神々が頻繁に表現された。マクセンティウス帝の宗教政策がキリスト教ではなく、伝統的な多神教に重点を置いていたことがうかがえる。
ミルウィウス橋の戦いに勝利した後、ローマに入場したコンスタンティヌスは解放者として市民と元老院から歓迎された。しかしコンスタンティヌスは古来の神々に対する儀式を行わず、自らに勝利をもたらしたと信じるキリスト教への帰依を強めたという。