1780年にオーストリアで製造されたターレル銀貨の極印を用いて、公式にリストライク(再鋳貨)された貿易用銀貨。通称「マリア・テレジアターレル」とも呼ばれる、世界史上有名なコインの一種。
表面には、オーストリアを統治した女帝
マリア・テレジア (1717年~1780年)の横顔肖像が打ち出されています。マリア・テレジアは最愛の夫フランツ1世が亡くなった後、哀悼の念を示すため生涯喪服姿で過ごしたと云われ、銀貨上にもヴェールを被った姿で表現されています。周囲部には称号「
M・THERESIA・D・G・R・IMP・HU・BO・REG・ (=マリア・テレジア 神の恩寵によるローマ皇后 ハンガリーとボヘミアの女王)」銘が配されています。
下部には元の極印が使用されていたギュンツブルク造幣局の造幣責任者トビアス・ショブル(Tobias Schobl)と銀品位検査官ヨーゼフ・ファビ(Josef Faby)の頭文字「
S・F・」銘が確認できます。
裏面にはハプスブルク王朝を象徴する「双頭の鷲」が表現され、周囲部には「
ARCHID・AVST・DUX・BURG・CO・TYR (=オーストリア大公・ブルグント公爵・チロル伯爵)」が配されています。
縁部分(エッジ)には「
IUSTITIA ET CLEMENTIA (=正義と慈悲)」の陽刻銘が確認できます。
マリア・テレジア (1744年)
マリア・テレジアが亡くなった1780年に発行されたこのターレル銀貨は、その後最もリストライクされたコインとして知られるようになりました。もともと貿易決済を目的としていたこの大型銀貨は、オリエント地域、特にアラビア半島~東アフリカ一帯の商人達に受け入れられました。現地の商人達はマリア・テレジアの肖像と双頭の鷲が刻まれた豪華なこのコインを大変気に入ったらしく、単なる銀塊よりもマリア・テレジアターレルでの受け取りを優先したそうです。この不可思議については経済学者ケインズも言及したほどであり、なぜマリア・テレジアの1780年銘ターレルが中東で人気があったのか研究が進められました。マリア・テレジアは16人の子どもに恵まれた多産の女性だったため、中東地域では結婚の際、縁起の良い結納金としても人気があったとされます。当時の女性が結婚式などで身につけていた装飾品には、マリア・テレジアターレル銀貨に孔を空け、ヴェールや胸飾りとして多数付けられているものが多く見られます。偶像崇拝や魔術を禁ずるイスラーム教にあっても、遊牧民ベドウィンの男女問わず御守として人気がありました(*厳格なサウジアラビアなどでは首周りや下着など、外から目立たない位置に身に着けていた)。
中東地域への進出を狙っていたイギリスやフランス、イタリアは自国でもこのコインを製造し、コーヒーの交易などで使用しました。1853年以降、欧州各国や英領インドの造幣局で製造されたマリア・テレジアターレルは8億枚にものぼり、20世紀半ばまでアラビア半島や東アフリカで流通しました。受け取った側の一部の土侯国では、コインに君主のアラビア文字名銘を加刻し、より信用を付与した上で自国領内外で流通させる例もみられました。
1933年にはイタリアがオーストリアからマリア・テレジアターレルを製造する権利を買い取り、1935年から1939年にかけて19,496,729枚をローマ造幣局で製造。イタリア軍によるエチオピア侵攻の際に、現地で使用する軍資金として利用されました。第二次世界大戦中はイスラーム教徒の多いインドネシアの抗日勢力を支援する為、アメリカでも製造されたと云われます。
近代的な統一政府や中央銀行が無い地域や、イスラーム教の戒律解釈によって紙幣の発行が否定されている地域で流通したマリア・テレジアターレルは、20世紀半ばに徐々に姿を消していきましたが、1970年代までアラビア半島南部のオマーンやイエメンでは通貨として流通していたという記録もあります。
アラビア圏では時代や地域によって様々な呼称があり、古くは「リヤル・ファランシ(=フランスのリヤル)」「カラ・クールシ(=黒いクルシュ)」「アブ・ブターカ(=窓, 裏面の盾紋章から)」「リヤル・アブ・タイール(=鳥の父のリヤル)」「アブ・シューシュ(=羽飾りの父)」など銀貨のデザインから取られた思い思いの愛称が存在しました。
19世紀~20世紀にアラビア半島で流通したインドルピー銀貨は「オンム(=母)」の愛称で呼ばれ、ヴィクトリア女王は「オンム・ビント(=娘の母)」エドワード7世は「オンム・サラア(=禿げの母)」、インド独立後発行のアショーカ王獅子柱のルピーは「オンム・サナム(=偶像の母)」と呼ばれました。