日本貸幣の歴史
日本貨幣の歴史
世界のコイン入門書が本になりました。
○ 飛鳥時代
【富本銭】
我が国では、和銅元年(708)に鋳造された“和同開珎”が最初の貨幣といわれていましたが、現在では、平成11年(1999)1月に奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から発見された“富本銭(ふほんせん)”33枚が『我が国最初の貨幣』であるといわれていますが、学者さんでは祝賀銭と見る人もいる。
この”富本銭”は天武天皇12年の683年に鋳造された貨幣で、中国の“開元通宝”をモデルにして造られ、大きさは10円玉(直径23.5mm)より少し大きい直径24mm・重さ3.75g・厚さ1.5mmで、中央に6mm四方の四角い穴があいています。
貨幣の表の上下には「富本」の二文字が刻まれており、この字「富本」とは「国を富まし、民を富ませる本(もと)」という意味です。
○ 奈良・平安時代
【和同開珎と皇朝十二銭】
“和同開珎”は、最初の政府発行貨幣である。今のところ和銅開称である事はだれも疑わない事実である。和銅元年(708)、今から1300年前に鋳造された貨幣(重さ一匁=3.75g)をいい、この鋳造から250年の間に、金貨幣1種類、銀貨幣1種類、銅貨幣12種類が誕生しました。このうち銅貨幣を称して『皇朝十二銭』と呼ばれています。
発行後一年で偽貨が現れた事も判っていて、偽造の歴史が昔からあった事が判る。
その後、豊臣秀吉が金・銀貨幣を造るまでの約600年間、我が国では貨幣の鋳造が途絶えました。
- (参考)
- 金貨:開基勝宝 天平宝宇4年(760)
- 銀貨:大宝元宝 天平宝宇4年(760)
- 皇朝十二銭:
- ① 和同開珎(わどうかいちん) 和銅元年(708)
- ② 万年通宝(まんねんつうほう) 天平宝宇4年(760)
- ③ 神功開宝(じんこうかいほう) 天平神護元年(765)
- ④ 隆平永宝(りゅうへいえいほう) 延暦15年(796)
- ⑤ 宝寿神宝(ふじゅしんぽう) 弘仁9年(818)
- ⑥ 承和昌宝(じょうわしょうほう) 承和2年(835)
- ⑦ 長年大宝(ちょうねんだいほう) 嘉祥元年(848)
- ⑧ 鐃益神宝(にょうやくしんぽう) 貞観元年(859)
- ⑨ 貞観永宝(じょうかんえいほう) 貞観12年(870)
- ⑩ 寛平大宝(かんぴょうたいほう) 寛平2年(890)
- ⑪ 延喜通宝(えんぎつうほう) 延喜7年(907)
- ⑫ 乾元大宝(けんげんたいほう) 天徳2年(958)
○ 平安後期・鎌倉・室町時代
【渡来銭(中国銭)の輸入】
平安後期(1100年頃)、主に砂金を輸出し、中国から『宋銭』を輸入して国内に流通するようになりました。
足利時代には、明(中国)と室町幕府の勘合貿易が始まり、大量の『明銭』が輸入されるようになり、特に“永楽通宝”は好まれ全国に広がりましたが、同時に『鐚銭(びたせん)』という粗悪な私鋳銭も出回りました。
○ 安土・桃山時代
【甲州金・天正長大判・菱大判】
戦国大名(武将)が金・銀貨を発行しましたが、その中でも有名なのは武田信玄が発行した「甲州金」です。
豊臣秀吉が造った最初の金・銀貨は、天正15年(1587)に発行されましたが、特に有名金貨には“天正長大判”・“天正菱大判”(天正16年(1588)があります。“天正長大判”はその名のとおり長さ17.5cmで世界最大級の大判です。
なお、大判の重さは十両(44匁=165g)に定められ、幕末の万延大判を除き、大判は常に十両の重さで造られていました。故に、大判「十両」の文字が書かれているのです。従って、大判の十両は量目であって、江戸期貨幣制度における金貨幣単位の十両ではありません。大判は主に、贈答やご褒美用として造られたものです。実質7両強。
この時代、庶民は渡来銭(永楽通宝)や鐚銭を使用していました。
○ 江戸時代
【慶長大判・小判・丁銀・豆板銀・寛永通宝】
徳川家康が日本で初めて貨幣制度を統一し、貨幣単位を定めて、全国流通を目的とした金・銀貨幣を鋳造しました。
慶長6年(1601)、家康は金座・銀座を設置し金座では金貨の“慶長大判”・“慶長小判”・“一分金”を銀座では銀貨の「丁銀」・「豆板銀」を造りました。
なお、慶長14年(1609)に金・銀の交換割合(金一両=銀50匁)が制定されました。また、銅貨が造られたのは、少し遅れて三代将軍家光の時代で、寛永13年(1636)に銭座が設置され、“寛永通宝”の鋳造が始まりました。
こうして金・銀・銅の三貨制が確立しました。
【慶長大判・小判・丁銀・豆板銀・寛永通宝】
元禄8年(1695)に、幕府の財政赤字を補填するために、初めて金・銀貨の品位を減らす貨幣の改鋳が行なわれました。
【享保の改革 品位の引き下げ →その後、改鋳相次ぐ品位の引き下げ】
享保の改革(吉宗時代)により、品位が引き下げられていた元禄時代の金・銀貨を慶長時代の金・銀貨の品位まで戻す良貨政策をとりましたが、その後、文政元年(1818)以降は幕府の財政不足が続く中、新たな財政確保のための貨幣の改鋳による出目(でめ)収入に頼るようになり、江戸末期まで相次いで貨幣の改鋳を重ねていくようになりました。
【ペリーの来航―金貨の海外流失】
アメリカのペリーが浦賀沖に来航し開国を迫ったため、幕府は嘉永7年(1854)、日米和親条約を結ぶことになり、ついで安政5年(1858)6月に締結された日米修好通商条約を締結する前年の安政4(1857)年5月、日米両国貨幣の交換割合等を内容とする日米約定が締結されました。
内容は、当時アジアでただ一つの国際通貨であったメキシコドル(洋銀)と一分銀の交換比率を1ドル=3分と定めたことです。当時の日本の貨幣制度は1両=4分=16朱の四進法であり、また、天保小判は本位貨幣、銀貨は補助貨幣としていたので一分金と一分銀は等価、各4分は1両と交換することができました。
当時の国際的な金銀比価は1対15で日本は1対5でした。そこに目をつけた外国商人たちは、まずメキシコドル4枚(4ドル)を一分銀12枚(12分)と交換し、さらにそれを小判3枚(3両)と両替することにより、この小判を外国で売ると、金銀比価の関係で3倍ものメキシコドルを手に入れること出来たため、大量の日本の金貨(小判)が流失していきました。すなわち、当初の4ドルが3倍の12ドルとなるわけですから、こぞって両替に走った結果、大量の金の海外流失を招くことになりました。
そのため、安政6年(1589)10月、幕府は洋銀と一分銀の交換を停止することを通告しましたが、これは事実上の貿易停止となるのでアメリカ総領事のハリスの勧告に従い、メキシコドルに「改三分定」の刻印を打ち、広く国内に通用させるようにする一方、日本の金銀比価が国際水準に比べ不当に低いことが海外流失を招くことになっていると指摘し、金銀比価を国際水準まで引き上げることをも勧告しました。その結果、万延元(1860)年に“万延小判”等の改鋳を行い、金の純量を1/3に引き下げ、国際水準に合わせることによって海外への流失は止まりました。
一方、我が国の貨幣制度は、幕府の度重なる貨幣の改悪・改鋳により、また、各藩が発行する藩札や藩内限り流通の貨幣の発行や偽造貨幣・私鋳銭等の流通もあり、びん乱の極みに達していました。また、経済的には物価騰貴を引き起こし、国民の不満をかきたてることとなりました。
【近代造幣工場の建設に向けて―改税約書】
このように乱雑を極めた貨幣制度は、欧米人たちにも被害を及ぼす状況にもなり、欧米各国の総領事達は、こぞって幕府に貨幣制度の整備を迫ったため、慶応2年(1866)、米・英・蘭・仏の四カ国と幣制を整備する旨を約する『改税約書』を結び、近代造幣工場の建設を約束しましたが、当時の幕府にはその履行を期待すべきもなく、この約束は明治新政府に引き継がれました。
○ 明治時代
【貨幣司・・・つなぎの官署】
幕府が大政奉還したあと、造幣局が出来るまでの間、つなぎの官署として「貨幣司」が設けられ、ここで“二分金”・“一分銀”などを鋳造しましたが、明治2年(1869)2月、太政官に「造幣局」を設置、「貨幣司」は廃止され、金座・銀座の灯も消えることになりました。
この時代、庶民は渡来銭(永楽通宝)や鐚銭を使用していました。
【造幣工場の建設】
造幣局の建設工事は、香港造幣局の機械(慶応4年(1868)機械一式を6万両で購入)が到着するのを待って、明治元年(1868)11月、敷地5万6千坪(約18万5千㎡)の広大な大阪・川崎の地で開始され、明治3年(1870)8月に超近代的な造幣工場が完成しました。
【明治創業期 新貨条例】
明治4年(1871)4月の創業式典を終えたおよそ3ヶ月後の6月に、我が国最初の貨幣法規『新貨条例』が制定され、『金本位制(金1.5gをもって1円とする)』のもと、その定められた規格に則り、純正画一な金銀貨幣の製造を開始しました。
- ◎新貨条例の内容(13種類)
- 位貨幣:20円、10円、5円、2円、1円の5種類の金貨幣と貿易用の1円銀貨幣
- 補助貨幣:50銭、20銭、10銭、5銭の銀貨幣と1銭、半銭、一厘の銅貨幣
この結果、旧貨幣の回収が大いに進み貨幣に対する内外の信用は急速に高まり、近代国家としての貨幣制度が築かれていったのです。
【造幣工場の建設】
明治30年3月、『貨幣法(金0.75gをもって1円とする)』が公布され、本位貨幣を廃止し、名実ともに『金本位制』の貨幣制度が確立しました。
○ 大正時代
【大正期】
第一次世界大戦(1914~1918)による経済の好景気を反映して、貨幣の需要も著しく増加し、造幣事業は非常な活況期を迎えることになりました。一方、明治40(1907)年代に実現した動力の電化を受けて、溶解技術に画期的な改革が行なわれるなど、「技術革新の時代」と呼ぶに相応しい時代を迎えましたが、第一次世界大戦の進行とともに我が国は、金輸出を禁止した結果、『金本位制』を停止するところになり、大正9(1920)年以降金貨の製造を休止しました。
○ 昭和時代
【昭和前期 臨時通貨法】
昭和5(1930)年、金融恐慌に苦しむ財政の建て直しのため、金輸出の解禁(金解禁)の措置が取られましたが、運悪く世界は金融恐慌の真っ只中であり、また翌6(1931)年に満州事変が勃発したため、12月に入り「金輸出の再禁止」が布告され、『金本位制』が完全に停止したため、再び金貨幣の製造は中止となり、以降、我が国は『管理通貨制』への第一歩を踏み出すことになりました。
その後、戦時体制強化とともに銀地金も不足しはじめた結果、銀貨幣の製造も不可能となり、ここにおいて『貨幣法』による金・銀貨幣の製造は全て出来なくなりました。そして、戦争の拡大とともに昭和13(1938)年6月に公布された『臨時通貨法』による補助貨幣の製造が開始されました。
【昭和後期~平成期 新貨幣法】
第二次世界大戦後(1945~)は、経済の復興期・高度成長及び安定成長期における経済状況、流通業界の動向及び、自動販売機などの普及によって、貨幣需要にもおおきな変化が起こり、その結果、昭和62(1987)年6月の『通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律(いわゆる新貨幣法)』が制定され「金」と「円」のリンクを廃止し『管理通貨制度』に即した法整備が行なわれ、今日に至っています。
この資料は、『独立行政法人 造幣局』東京支局 様のご好意によりご提供戴き、引用させて頂きました。